元の家屋は、7,000㎡の敷地のほぼ中央部に建っていました。茅葺きの寄棟造りで158㎡(約47.9坪)の広さを持ち、解体直前まで実際に居住されていました。
屋根葺きは茅と竹を縄で縛り、木組みは柱の穴(ほぞ穴)に梁の突起物(ほぞ)をはめ込んで合わせる工法で、釘は1本も使われていません。
平成15年(2003年)に和光市の有形文化財に指定された旧冨岡家住宅の建物は
●桁行(横幅) 16.66m(9間1尺)
●梁間(奥行) 9.12m(約5間)
●床面積 151.98㎡(約46坪)
ーーーの寄棟造りです。
新倉の土地は荒川に面し、武蔵野台地の縁にあたり、江戸時代は日本橋から4里半(約18km)の近い距離にあるので、新田開発が進められました。台地では畑作、荒川流域では稲作中心の農業が営まれ、豊かな農家が多かったこの地においてもひときわ大型の民家でした。
家族が日常生活を送る場である主屋の間取りは、規模に大小はあっても、ほとんどが「田の字」型と呼ばれる4部屋を構えた間取りになっていました。旧冨岡家も、解体時はトイレを屋内に設置した「田の字」型の間取りに改造されてありました。
改造に当たっても柱や梁のなどの部材は創建当時から、つまり320年以上そのまま使われていました。柱は全て同じ太さに揃えられ、その四面は手斧で削って仕上げた痕があります。ほとんどの部材が建設当時のもので、改築が少なかったことからも、歴史的にも高い評価をされています。